no20 チェコ・ チェスキー・クロムロフ

 no20 チェコ・ チェスキー・クロムロフ 
 
 
7月25日(月)
 
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ドイツ系とチェコ系住民が共存していた
 
オーストリア=ハンガリー帝国の一部の花束のような美しい町は、
 
第一次世界大戦の敗戦に伴い、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、
 
町はチェコスロバキア領となり、
 
1920年4月、町の公式名称もクルマウからチェスキー・クルムロフとなる。
 
1938年、ナチス・ドイツにより、
 
チェスキー・クルムロフを含むボヘミアのドイツ語圏地域はドイツ領となった。
 
1945年、ドイツは第二次世界大戦に敗北し
 
チェスキー・クルムロフは、独立を回復したチェコスロバキアに復帰。
 
しかし、ドイツ系住民はチェコスロバキアの市民権と私有財産を剥奪、没収、
 
故郷から追放処分となる。
 
1945年以降、町の伝統的な住民の多くを追放したことで、
 
チェスキー・クルムロフは荒廃状態にあった。
 
1948年の共産主義化により、城郭などの歴史的建造物が価値を否定されたことも、
 
その荒廃に拍車をかけた。
 
ようやく歴史的建造物が徐々に補修されるようになったのは、
 
プラハの春が訪れた1960年代後半以降のこと。
 
そんな歴史のチェスキー・クルムロフ、もっと長く滞在、観光したいと思った。