平成いろは丸

 平成いろは丸 

「平成いろは丸」は鞆の浦から仙酔島への市営渡船の船名で、モデルは幕末の「いろは丸」です。
「平成いろは丸」、常に船首を上げて航行していたのが残念です。
着岸の時だけ跳ね上げて、航行中は下ろして欲しかった。
運行当初はそうしていたのでしょうが、
運行距離が短いですから、だんだん邪魔くさくなったんでしょう・・・・。


「いろは丸」は幕末に伊予国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)が所有していた西洋式の長さ三十間、
幅三間、深さ二間、四十五馬力、百六十トン、三本マストを備えた蒸気船。


「いろは丸」は坂本龍馬率いる海援隊が借用、亀山社中(1865年坂本竜馬が長崎で結成した貿易結社。
 物資の輸送とともに航海訓練を行うなど、私的な海軍の性格をもち、海援隊の前身と なった。)が運用。
慶応3年4月23日午後11時頃、いろは丸は最初の航海で瀬戸内海の備中・六島沖を航行中、
紀州和歌山藩船・明光丸と衝突。
一番近くの鞆の浦に曳航しようとしたが、浸水のため宇治島沖で沈没した。

鞆の浦にて、紀州藩を相手に坂本龍馬をはじめ、総掛りで賠償の交渉にあたる。
その後、交渉に土佐藩後藤象二郎が加わり、事は土佐藩紀州藩の事件に発展。
最終的には土佐藩参政・後藤象二郎と、紀州藩勘定奉行・茂田一次郎とのトップ会談に持ち込まれ、
遂に紀州藩は賠償金の支払に同意したのである。

坂本龍馬の政治力、交渉力、広範囲な人脈を駆使した事件解決である。

「明光丸」は紀州和歌山藩が、15万5000ドルかけてイギリスから購入した、
150馬力、880トン、鉄製内車(スクリュー推進)型蒸気船。
積載量は160トンあり、いろは丸の実に6倍近い船でありました。

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